高校でいちばん信頼していた友達から「大変だったね」と言われたくない。
そう言われて、今までの信頼関係が私の心のなかで崩れるのが怖いので、お見舞いを断っているのです。
心から励ましの気持があるのなら、「がんばってますね」と言うべきですよ〉 病気の理不尽な現実を耐え忍び、患者本人が胸の奥にしまった孤独なつぶやき。
別の日のメールでは、不勉強な医者への激しい憤怒をのぞかせた。
〈私が最初にかかった医者は、たしかにリウマチとか半月板損傷とか、そういう一般的ながん患者が死と向き合うとき一終末期医療を考える治療には定評のある先生でしたが、私の病気(神経肉腫)については専門外だった。
たとえ専門外でも年に一度ぐらい、研修で最新知識を学んでいたら膝にいきなり内視鏡(膝関節鏡)を入れる前に、まずMRIなりCTなりを撮り、患部の様子を見るはずです。
そうすれば私の膝が「筋力低下によって関節に負担がかかっている痛み↓ニキログラム荷重で腿上げによる筋カトレ」なんてバカな診断はせずに、何かは特定できないが膝の裏に腫瘍ができていると一発でわかったはずです〉 三年弱の闘病中、自分の病気のことを熱心に調べたのだろう。
彼が冒された軟部肉腫というがんは、最初の治療の成否により患者の運命が決まる。
確実な診断を下すためには、Nさんが記したとおり、MRIやCT、超音波、血管造影などの検査を行い、さらに腫瘍の一部を採取して細胞診検査がなされるべきであった。
それをしなかったのは、目に見えない医者のミスに違いなかった。
不勉強なくせに矯った医者の過ちが、がん患者の生死を分ける。
ふつうの病気ならそれでも笑っていられるが、がんは事情が違うんだぞ。
がんの痛みで眠れない夜に、Nさんが患者の怒りをあらわにした私宛てのメールだった。
ほぼ同じ時期、激しい痛みがNさんを襲った。
その翌日のメール。
〈Nです。
今日ぱ昨日の夜から背中が激痛で痛くて眠れずに朝一番で、小笠原先生に神経ブロックをしてもらっていました。
(背中の痛みを止める)神経ブロックの治療後に私が体を動かしてしまったため、急激に血圧が下がって呼吸困難、わき腹の激痛、一気に痛みが襲って「もう死ぬのか」と思った。
そのとき先生ぱもの凄いスピードで(右手首に)点滴針をさし、鎮痛剤と安定剤、麻酔など的確な処置を施されたのだと思います。
気がついたら別室のベッドで安楽に横だわっている自分がありました。
「あ、生きていたんだな」。
もう先生が神様のように見えました。
私が「心底おりがたい」と思ったのは小笠原先生が初めてです。
本当に良い先生にめぐり合えたと思います。
まだフラフラしていますので……それではまた〉 夜更けの午前零時過ぎ、私はがんばってますね〉と短いメールを書いた。
Nさんの病状は楽観できなかった。
がん末期の苦痛をやわらげるため、小笠原医師の往診による「痛みの治療」が繰り返された。
がんが転移した肺の部分からの出血が止まらず、それが大量の胸水となって胸腔内を圧迫して激しい痛みが襲う。
加えて、肺機能低下による呼吸困難は一層ひどくなり、一日刻みで悪化する。
病状的には今日がいちばんいい日であり、明日はもっと悪くなる。
私たちが知り合って二週間が過ぎていた。
この時期に、その病状の進み具合を確認したところ、小笠原医師は言った。
「よく頑張っておられるけれど、Nさんは非常にきびしい状況です。
もちろん、ご本人もそれを知っています」 命の残り時間は、あとI、二週間のようである。
この状況に立ち至っても、私の取材を続けるべきか。
家族とともにゆっくりと静かな時間を、Nさんは過ごされるべきではないか。
迷った末、私は小笠原医師を通して取材断念の意向をNさんに一度伝えた。
だが意外にも、まだ彼はやる気だった。
「彼は、『僕は取材を受ける気持ちでいますよ』と言うんです。
自分の受けている医療(在宅ホスピス)のことを、多くの人に知ってもらいたいからと何度も繰り返していました」Nさん宅の風景 二日後の九月二十六日夕方、カメラマンとともに、Nさん宅を訪ねた。
濃いブルーのTシャツに半ズボン。
彼は、背もたれが角度三十度ぐらいの電動式ベッド上で横たわり、愛用のノート 私は、その枕元近くの椅子 「お元気そうで何よりです」にパソコンはスイッチオンの状態だ。
腰掛けた。
「ええ、今日は元気です。
プロのカメラマンが来るから、折角なんで僕の遺影を撮ってもらおうかと」 初対面のかたい雰囲気をやわらげようと気遣い、Nさんが軽いジョークを飛ばした。
その夫の横で妻のHさんが言った。
「そうなんです。
遺影を撮ってもらうって言うんです」 「で、家族に呆れられちやいました」 とNさんが微笑んだ。
仲のよい夫婦だと心のなかで思った。
ベッド脇にぱ在宅酸素療法に使う濃縮酸素ボンベが見えた。
肺機能低下による呼吸苦をやわらげるための治療装置だ。
Nさんぱ、直径五ミリぐらいの透明チューブを口にくわえ、その酸素ボンベから濃縮酸素を吸っていた。
Nさんが「やっぱり諸悪の根源は胸水ですね」と胸部の痛みを訴えた。
この日、訪問看護でその場にいた婦長が手際よく胸水を抜く処置に取りかかった。
やがて、右脇腹から胸腔内へと挿し入れたカテーテル(細い管)を通して胸水がゆっくり抜き取られIリットル容器の底に溜まってゆく。
真っ赤な胸水は血液の色に近かった。
大量に溜まった胸水を五百叩抜くのに、約一時間かかった。
その処置が終わるとNさんは激しく咳き込み、「ペッ」と少量の痰を口から吐き出した。
胸水を抜いて右肺の容量が膨らむと新鮮な空気の出入りがよくなる分、咳と一緒に喉の奥から痰が何度も噴き出た。
Nさんは、「ゴホン、ゴホン、ゴホン、ゴホン……」と十数回苦しげな咳を繰り返した。
がん患者が死と向き合うとき一終末期医療を考える そのとき幼稚園年長組の愛息R君が無邪気な顔をのぞかせた。
「パパ、ここが痛いの?」とR君が父親の顔を見ると、Nさんは「そうだよ」と言った。
子煩悩な三十九歳の父親の顔である。
この日撮影された写真の一枚は、ベッド上のNさんの横顔が彼らしく毅然とし、人間的な内面の強さを思わせる。
彼が視線を向ける先には妻の姿が見える。
彼女は静かな微笑みを浮かべていた。
医療の主役は誰か 年齢的に、Nさんは私より一回り若かったが、自宅を訪ね、互いが顔を合わせたことで親近感は一気に深まった。
モルヒネで意識が朧朧とするのだろう、Nさんの綴るメールは、ひらがな文字が目立ち、句読点抜きの文章へと変わった。
この時期、体力は弱ったが、Nさんは的確な状況判断をしていた。
一度、〈モルヒネはできるだけ避けたかった〉と語った。
そのことを改めて質問すると、〈モルヒネつていうと 戦争で手足を吹っ飛ばされたような人が最後の痛みの抑えに使うような強い薬というイメージでした。
いまはうまくコントロールすれば後遺症もないし、痛みもおさえられる 使用量を間違えなければ末期医療にぱすばらしい薬だと思います〉 十月初旬、週刊誌に載せる予定原稿が仕上がった。
原稿を何度も読み返し、「すみません。
ここを直してください」と遠慮がちのNさんのメールが二度、三度と私のもとに届いた。
原稿締め切り当日の朝も、私の仕事場に電話が入った。
夜中じゅう原稿を読み直したのだろう。
「すみません、吉原さん、まだ訂正は可能ですか」。
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